第20話 持つべきものは友
某年某月某日
ここ数週間まえからアイドリングがラフになり、エンジンパワーが落ちてきているように感じていたので、怪しそうなところをチェックする。アイドリング中に1番のシリンダーから1気筒づつ順にハイテンションコードを抜いていく。1番はアイドリングがもっとラフになり、2番、3番と同じ症状がでるが、4番を引き抜いても、ほとんど変化が起こらないことが判明する。ひょっとして火が飛んでいないのかと、プラグをチェックするとちゃんとパチパチスパークしている。キャブレターは3番4番シリンダーが一個で賄われているので、3番がちゃんと爆発していると言うことは、燃料の問題ではないだろう。こうなるとやはり中身である。
S自動車サーヴィスでコンプレッションゲージを借りて、コンプレッションを恐る恐る計ってみたら、やはり4番だけ極端に低かった。とくにオイル煙は吐いていないので、ピストンリングではなくバルブとバルブシートの透き間から圧縮がもれているのだろうとの結論に達する。この診察に付き合ってくれたのは、ブルーのアルピーヌのNSである。
そのころ巷では、有鉛ハイオクガソリンを置いているガソリンスタンドがどんどん減って、止むに止まれず、無鉛ガソリンを入れなくてはならない状況がしばしば起こるようになっていた。そんなことがこのトラブルの原因かもしれないので、この際だからバルブシートを無鉛ガソリン対応のものと交換することになった。この作業に必要なトルクレンチ、バルブスプリングコンプレッサーなどの工具を持っているNSも協力してくれるというので、早速サービスマニュアルで手順を確認する。
作業は、エンジンからヘッドを外し、バルブなどを全部取り除いた状態でボーリング屋に持ち込み、シートを打ち替えてもらった後、バルブを組み付け、カムシャフトとのクリアランスの調整をして組み直す、と言った内容である。
このたった3行の手順は、サービスマニュアルの内容と同じで、そこに待ち受けている汗と涙と度重なる失望は、全く含まれていないのでいかにもスムーズに聞こえる。
ボーリング屋は、Sが以前アルピーヌのトランスミッションケースの熔接を頼んだことがある、恵比寿と渋谷の中間の山手線の線路沿いにある「N熔接」にお願いすることにする。
Sが言うには、「このボーリング屋は名前の通り、外見は鍛冶屋のようだが、割れたアルミのミッションケースのクラックを見つけるのに、ちゃんとクラックテスターのスプレーを使っていたし、店の中にはポルシェやアルファのヘッドがゴロゴロしていたから、きっと腕はいいのだろう。」と、外見から受ける印象で物事を判断してはいけないと、何処かで聞いたもっともらしいことを言っている。作業はワイフの実家のガレージで行なうことにする。なぜなら、そこがボーリング屋とOトレーデイングから目と鼻の先の距離なので好都合なのと、この梅雨時に作業するには僕の駐車スペースには屋根がないからである。
某年某月某日
NSが工具を携えて現われる。今日の工程は、ヘッドをバラしてボーリング屋に預けるまでである。
彼は、モンキーのエンジンのチューンアップからこの道に入って、アルピーヌのゴルディーニエンジンまでステップアップした、今回の作業の先生である。いくら彼がアマチュアとは言え、バルブスプリングコンプレッサーを持っているし、バラしたバルブ、バルブスプリングや細々したパーツを元の位置を取り違えないように整理しておくための、中を8つに区切った箱を取り出した時には、「持つべきものは友だな」といたく感激した。
まずは、カムカバーを開けバルブクリアランスを測定しておく。トラブルの原因だろうと予想していた4番シリンダーのエキゾーストバルブは、予想どおりクリアランスがゼロになっていた。バルブクリアランスがゼロとは、カムの山が一番低いところでもバルブリフターとの隙間がないのだから、バルブの傘とバルブシートの間に隙間が出来てしまっているのだ。だから、その隙間から圧縮が漏れて、爆発してもパワーが出ないのは当たり前である。なにしろ4気筒エンジンのシリンダー1つは、全体の25%も受け持っているのだから。
作業を開始するに当たって、もちろんサービスマニュアルを用意していたが、Sの経験に基づいた押さえ所を踏まえた作業は、マニュアルには書いていないことが多いのでとても勉強になるし、S自動車サーヴィスに払った授業料も無駄にはならないだろう。
エキゾーストマニフォールドのスタッドボルトが、ナットと一緒に回って抜けてきてしまったりするイレギュラーはあったものの、けっこう作業はスムーズに進み、シリンダーヘッドとシリンダーを分割することができた。バルブスプリングコンプレッサーのおかげで、バルブも整理箱の中に整然と納まった。ここまできて突き当たった問題は、ヘッドから横に飛び出したヒーターバルブをどうするかである。このヒーターバルブは、ロータスツインカムエンジンを見たことがある方は一様に気がつくと思うが、ヘッドの横から飛び出していて、見てくれがいかにもローテクな感じがする、イギリス車特有の使い回しパーツなのである。アルミのヘッドにヒーターバルブのアルミのネジ部分が締め込まれていて、そこを水が通っているのだから、固着してしまっているのは明白である。そして無理に回せば折れてしまいそうなので、ここには手を付けず、ヘッドをボーリング屋に渡すことにする。ボーリング屋でバルブシートとバルブガイドの打ち直しを依頼したら、「一週間後に取りに来い。」とのことだった。ヒーターバルブが付いたままになっていることが、話題に上らなかったと言うことは、きっとそのままで作業に支障はないのだろう。
ところが翌日やはりボーリング屋から「ヒーターバルブが折れてしまったので、どうするか?」と電話がかかって来た。僕は、「そちらの落ち度もあるのだから、パーツ代を折半してはどうか?」と持ちかけた。すると、「それだったら、これを直すのではどうか?」と言うので、取りあえず直してもらうことにする。なぜなら、この車がホットすぎる一因は、このヒーターバルブが完全に閉じていないからではないかと常々疑っていたので、機会があったら新品に交換しようと思っていたし、ただでも見栄えが悪いのに、折れた所を熔接したりしてもっと格好が悪くなれば、思い切りも付くからである。因みにヒーターバルブは、1万円近くするのである。
某年某月某日(1週間後)
N熔接へ、ヘッドを取りに行く。もちろん打ち替えられたバルブシートがどうなったか興味があったが、もっとどうなったか楽しみだったのは、ヒーターバルブの方である。渡されたそれは、きれいに磨かれていて、新品に見えるとは言えないが、「エッ何処が折れたの?」と聞きたくなるような出来栄えだ。この一件で、僕もスッカリN熔接のファンになってしまった。感謝の気持ちを素直に表したら、こういう工場にめったに現われない素人が珍しかったらしく、丁寧にバルブのすり合わせ方を説明してくれた。もちろんバルブシートも、文句なしの出来上がりである。しかし、この鍛冶屋のように鉄屑や砂が積もった工場内の地面に、ボラーニのワイヤーホールのスピンドルとランボルギーニミウラのシリンダーブロックが、捨ててあるかのように無造作にころがっていたのには驚いた。とにかく今後のため、この社長とは仲良くしようと、心に誓うのだった。
ヘッドを持ち帰り、教わった通りにバルブを擦り合わせをして、良く洗ってからバルブを組み始める。4番のエキゾーストバルブは、再使用不可能なほど減っていたので、新品を用意しておいた。バルブが組めたら、ヘッドをシリンダーブロックに載せる前にクリアランス調整をすることにする。ヘッドにカムシャフトを載せてカムシャフトを押さえ付けているカムキャップを規定トルクで締め込んでバルブクリアランスを計り、適性クリアランスを得られるシム厚を計算するのである。まず最初の失敗は、カムキャップを締め込んだら、カムシャフトが完全にロックされてしまって全く回らなくなってしまった。「ラインボーリングされているのだから、回らなくなるわけがないのだけど?」とNSも頭を捻っている。あーでもないこーでもないの論争の後、もう一度マニュアルを良く見たら、カムキャップに刻印されている番号を読み取る方向が逆で、要するに逆さまに入れていたのである。こんなちょっとしたミスで、簡単に小一時間が過ぎてしまう。
ここでツインカムヘッドの作業をする時に、素人がおかしやすいミスを紹介しておこう。
これは数年前に、友人TがホンダS800のバルブシートの交換をしたを時の話で、僕は手伝っただけだから主犯でなかったことを、最初に言明しておく。そして今回は、この過ちの経験がしっかり学習効果として発揮され、ミスを繰り返さずに済んだ。
ホンダS800のエンジンオーバーホールを全て完了して、いざエンジンに火を入れようとセルモーターを回した時、そのトラブルは発見された。なんと、どのシリンダーも全く圧縮がないのだ。このようにやっと組み上がって、いざエンジンがかかるという幸福の絶頂からの脳天逆落しは、作業の途中で気がつくより精神的なダメージは数倍も大きのである。
原因をいろいろ調べるがまったく分からず、もう一度ヘッドを外して肉眼で見ても、何も悪いところが見つからない。協議の結果、これは「ボーリング屋が、なにかミスをしたのだろ。」との結論が出て、勢いボーリング屋(N熔接ではない)に怒鳴り込む。するとボーリング屋は、しげしげとバルブ回りをチェックした後「インテークバルブが4本とも曲がってるじゃないか。」と応酬してきた。しかし、Tも僕も、バルブを曲げるようなことをした覚えがない。「まったく、素人はこれだから困る。」と心の底で思っているのが見え見えの態度で、僕たちに対する訊問が始められた。「排気、吸気両方のカムシャフトのカムキャップを絞めたまま、カムシャフトを回さなかったか?」
僕たちの答えは「Yes!」で、「どうしてそれがいけないの?」、、、、その原因の解説を受けながら、ぼく達は、ただ顔を赤らめることしかできなかった。
その原因は、ツインカムエンジンは、インテークとエキゾーストそれぞれのカムシャフトの回転に従ってのバルブが交互に開いたり閉じたりしているわけで、その2本のカムシャフトの回転は、チェーンとかギアとかベルトによってそのタイミングが一定に保たれているのである。そのタイミングを無視して、両方のカムシャフトをカムキャップで締め込んで勝手に回すと、インテークバルブとエキゾーストバルブの間で通常では起こりえない開閉状態、いや開開状態が起きて、バルブのカサ同志がぶつかり合ってしまうのだ。そして、材質的に柔らかいインテークバルブが犠牲になってしまうのである。これを回避するには、マニュアルに書いてあるカムスプロケットの合いマークの位置にマークが合っていない限り、インテーク、エキゾーストカムシャフト両方のカムキャップを絶対一緒に締めないことである。だから、バルブアジャストは、インテーク、エキゾーストどちらか一方を全て済せてカムキャップを緩めてからもう一方を行えば、このミスは絶対起こらないのだ。
今回はミスすることもなく、一度火傷するとその痛みを当分の間は覚えている、人間の能力に感謝することしきりだった。
バルブアジャストの作業は、手元にバルブクリアランスを調整するためのシム(直径が1円玉の2/3程度で、厚さ2?4ミリ程度の金属)が、0.01ミリ毎にズラーっと揃っていれば、アっと言う間に終わってしまうのだが、そんなに都合のいい話は素人修理の世界にはありえない。まずやらなくてはいけないことは、元のシムを入れたままカムキャップを適正トルクで締め付け、クリアランスを計り直すことだ。新しいバルブシートが入ったため、クリアランスはすっかり変わってしまっているので、これまたNSが教えてくれた表を作り、8本のバルブのクリアランスを適正値まで戻するために必要なシムの厚さを、計算して書き込むのである。そして、その数値に該当するものが、現在手持ちの8枚のシムの中に有るかどうか照らし合わせて、そのシムの中にどこかのシリンダーの必要値以内に入っているものが有れば、そのまま使えるし、必要値より厚いシムは、削って厚さを調整すれば使うことが可能なわけだ。ただし、薄すぎるものは使い物にならない。
計算の結果、8枚の内2枚がそのまま使用可能で、3枚は、削れば何とかなることが判明した。残りの3枚は、薄すぎて使い物にならないため、Oトレーディングのお世話になることになった。早速Oトレーディングに確認するが、ここでさえ必要厚ピッタリのシムは1枚しかなく、あとの2枚は厚目のものを買って削らなくてはならないことが判明した。ようするに、5枚のシムを削って厚さを調整しなければならないのである。シムは、バルブクリアランスを適正に保つのがその役目だから、それが硬い材質でできていることぐらいどなたも簡単に想像できるだろう。それなのに僕たちには、旋盤なんて便利な機械あるわけがないから、手で削ることにしたのである。これがバカ気たプランだったということに気付くには、作業を始めてからそんなに時間は掛からなかった。なぜなら最初に始めた、耐水ペーパーを平らな板の上にのせてシムをこすり付ける方法では、気が遠くなるほど削れないのである。これでは時間とサンドペーパーがいくら有っても足りないことが判明する。今度は、NSがリューター(ポートを削ったりするときに使う、小型の高回転ドリルのような工具)を使うことを発案する。それには、彼が一度自分の家まで戻ってそれを取ってこなければならないのである。それでも、この方法を凌駕する妙案もなく、彼が出掛けている間も、僕は黙々とシムをサンドペーパーにこすり付けていた。
1時間ほどで戻ってきた彼が、軍手をはめた左手の指先にシムを載せ、高速で回転する砥石をシムに軽く押しつけると、シムは、クルクル回転しながらけっこう効率的に削れるではないか。時々リューターの先に付いた砥石から火花が出たりしているのをみると、文明の利器のすごさを思い知らされた。これはなかなかグッドアイディアである。少し削っては、削れた量をマイクロメター測定する。それを繰り返して、最後はサンドペーパーを使い手仕事で平面に仕上げるのである。この作業をかなり夜遅くまで続けていたら、見かねたワイフの父親が、「これを使ったら」と、彼の趣味の仏像彫りに使う彫刻刀を研ぐための砥石を差し出してくれた。これで完璧に平らなシムを仕上げることができる。なにより仏陀に通ずるロータスだから罰は当たらないだろうと、ありがたく拝借した。
この作業を終えた時、僕の指紋は完全に消え去っていた。
翌日は作業の続きである。バルブクリアランスを規定値内に収め、シリンダーブロックに新品のヘッドガスケットを敷きその上にシリンダーヘッドを載せ、トルクレンチでヘッドボルトを締め付ける。タイミングチェーンをかけ、バルブタイミングの合いマークを合わせて、一歩一歩完成に近付いていく。オイルがちゃんと上がってくるかどうか確認するためスターターを回すと、カムシャフトがバルブを順番に押し下げているのが見える。そしてほどなくすると、カムベアリングとカムシャフトの間からけっこうな量のオイルがにじみ出てくる。オイルプレッシャーもOKである。こんな様子を見ていたら、エンジンが血液が流れる生命体のように感じてしまった。このように機械をいとおしんでしまうのは僕だけではなく、誰でも持っている感覚だと思うが、、、、、
あとは保機類を取付けて、カムカバーを被せれば完成である。
やっとエンジンに火を入れる所までこぎ付けたころには、日もとっぷりと暮れ、雨が降りだしていた。何か忘れ物がないかもう一度辺りを見回し、指差し確認をしてからイグニッションキーを捻りスターターを回すと、ガソリンがフロートチャンバーを満たすまでの時間が有った後、「バッゥンーン」と一発でアっ気ないほど簡単にエンジンがかかった。アイドリングの音は、以前よりズーっと絞まっていて力強そうである。早速NSと一緒に乗り込み、雨降る町へテストドライブに繰り出す。エンジンはこれまで経験したことがないほどピックアップが鋭く、ウソのように調子が良いではないか。濡れた路面でアクセルをチョット踏み込み過ぎると、2ndギアでも簡単にホイールスピンを起こしてしまう。これはまるで車重が100キロ以上も軽くなったようだ。今までのこのエランはいったい何だったのだろうか、きっと「エランの皮を被ったビートルだったに違いない。」とか「これはパワーが有り過ぎて危ない!」と、バカな事を言いながら思わず顔を見合わせて成功を喜ぶ二人だった。
しかし人間の感覚とは悲しいもので、このパワーアップの幸せが続くのもほんの何日間で、すぐにパワーが落ちてきたように感じてしまったのだ。これは、エンジンパワーが落ちたのではなく、人間の方がパワーに慣れてしまったのである。人間にこのすばらしい能力が有るからこそ、自動車の終りなきパワー競争が続いて行くのだ。
そんなわけで今回のバルブジョブは、思いのほかシム削りに時間が掛かってしまったが、NSの協力のおかげで取り返しの付かないミスもなく、大成功のうちに終了した。
やはり人生において大切なものは、友であり、工具とノウハウを持った友はなお良しである。
|